オーナークラフトマン紹介
アメリカンレザークラフトの歴史
オーナークラフトマン大塚孝幸について
アメリカンオールドタイマーの遺志を継ぐ最後の職人
1920年代~40年代、ウェスタンサドル産業が全盛であった時代の職人を、アメリカのサドル業界では通称「オールドタイマー(直訳すると“昔の人”の意味)」と呼ぶ。その時代を若手として過ごしたオールドタイマー達にとって、大塚がアメリカでサドル製作修行をした1990年代は、彼らが最年長の大御所となって現役を続けていた最後の時代であった。
また、レザークラフトが一般に普及したのは1950年頃であり、オールドタイマー時代のサドル産業は非常に閉鎖的で、知識と技術の習得はもちろん、工具の入手すらも大変な苦労、努力を要した。
大塚が住込みで弟子入りして習得したサドル作りは、オールドタイマー時代の伝統的な製法である。また、アメリカ滞在中に全米各地の講習会やトレードショウに積極的に出向き、自身の親方以外のオールドタイマーとも交流を持ち、彼らから知識と技術だけでなく、オールドタイマーならではの姿勢や精神も学んだ。こうした経験ができたのは1990年代が最後であり、当時20代だった大塚は彼らの遺志を継ぐ最後の世代と言える。
日本国内唯一のウェスタンサドルメーカー
ウェスタンサドル製作は、元々はアメリカンレザークラフト発祥の原点であったが、現在は、アメリカンレザークラフトに取り組んでいる者にとって最後にたどり着く、究極の憧れの作品でもある。
また、ウェスタンサドルは作品という以前に乗馬の「道具」であり、その機能性と耐久性は作品としての美しさ以上に重要である。アメリカ滞在中に乗馬を習得した大塚はその点も理解している。
大塚はウェスタンサドル製作の知識と技術を持ち、道具としての機能性も理解する日本国内唯一のウェスタンサドルメーカーである。
日本のみならず、アジアでのレザーカービングの普及に貢献
1990年代前半、日本のレザークラフトは職人の革仕事というよりも、趣味の手芸というイメージであった。
大塚がアメリカから帰国後の1990年代終盤以降、講習会やワークショップ、教本の監修という形で本格的なアメリカンレザークラフト、カービングの普及に努め、日本のレザークラフト全体のレベルアップに大いに貢献した。
大塚の作風はアジア各国からも注目を浴びレザーカービングが流行するきっかけとなり、2010年代に入ると中国・北京に招聘されて講習会の講師をつとめた。
現在、日本、中国をはじめとするアジアのレザーカービングは本場アメリカに肩を並べるレベルであり、多くのトップカーバーが大塚の指導や影響を受けている。
アメリカの人間国宝も認めた実力
2019年、アメリカ版人間国宝に当たる、全米芸術基金の「ナショナル・ヘリテイジ・フェロー」に認定されたジェームズ・F・ジャクソン氏と、アメリカ修行時代から約30年に渡る親交があり、憧れの大先輩と後輩の関係でありながら、今では盟友関係でもある。
レザーカービング界のレジェンドとも言われるジャクソン氏が「タカ・オオツカは現在、世界で最も優れたクラフトマンの一人である」と公言している事が、大塚の実力を証明している。
クラフトマンとしての自負・こだわり
私にとってオールドアメリカのカウボーイの世界やウェスタン文化はロマンであり、その時代に現役で活躍した職人(オールドタイマー)はヒーローです。
若かりし頃、アメリカ現地でサドル業界に身を置いた事により、今ではオールドタイマーをはじめとするすべての先人と、サドル産業も含めたレザークラフトの歴史への尊敬、感謝は日本では誰にも負けないと自負しており、常に「先人と歴史に恥じないモノ作りを」と心がけて作業に取り組んでいます。こうした想いを根底に持ち続け、後継者である事を自覚する事は、私にとってある意味モノ作りの知識や技術以上に大切な物であり、プライドでもあります。
また、カウボーイやウェスタンというとワイルドで無骨なイメージを連想されがちですが、私の経験では寡黙でストイックな気高さ、哀愁や色気があります。
お客様にお届けする商品が洗練されたデザインで高品質である事は当然の前提ですが、さらに私は上記のような、先人と歴史へのオマージュ、オールドウェストへのノスタルジー、リアルカウボーイの哀愁、色気、そうしたモノすべてをレザーアイテムを通して表現する事を目標としています。
アメリカンレザークラフトの歴史
アメリカンレザークラフトはウェスタンサドルが発祥と言われている。1920年代~40年代にかけ、ウェスタンサドルは生産量も品質も全盛を誇り、多くのサドルカンパニー(会社規模のメーカー)が存在し、ベルトや財布などの革小物もそこに在籍する職人や下請けの職人が製作していた。
第二次世界大戦後の1940年代終盤、帰還兵がレジャー用にサドルを購入するという特需を最後に、サドル産業は衰退の時代に入る。一方、それまで秘匿性の高かったレザーワーク(革仕事)の工具や教本を大量生産して一般向けに安価で販売する工具/材料メーカーが現れ、レザーワークはホビーとして急速に普及した。“レザークラフト”という言葉が誕生したのはこの時である。
1960年代には高品質のサドルを作るカンパニー(会社)規模のメーカーは全てなくなる一方、個人工房で製作されるサドルの品質、特にレザーカービング(革に柄を彫刻する技法)は進化し続けた。
1980年代にはサドルは単なる乗馬の道具としてだけでなく、ウェスタンアート(ウェスタン文化にまつわる芸術品)として認知されるようになった。一方、ホビー界もコストや採算性を考慮しない作品製作という利点を生かし、工芸性を高めると共に、サドル製作にはない技法も多く誕生させた。
1990年代に入り、情報網の充実と、ホビークラフターとプロのサドル職人の垣根を超えたイベント、トレードショウ(見本市)の出現により、相乗効果となって双方の業界が格段に進化した。その頃から日本、ヨーロッパにも本格的なアメリカンレザークラフトの潮流が盛り上がり始め、2000年代に入るとその影響はアジア全土や中東にも及び、現在に至る。
その一方で、現在アメリカ本土のサドル業界においては、1950年以前の伝統的な工法によるサドル製作を継承した職人は皆高齢で次世代の継承者がなく、日本の伝統技術と同じく後継者問題を抱えている。
日本にレザークラフトが最初に入ってきたのは1950年頃、第二次世界大戦後の進駐軍によるものと言われており、アメリカ本土でホビーとしてレザークラフトが一般化した時期と一致するが、この時は日本で一般に広く普及する事はなかった。
70年代になり、工具や教本をアメリカから輸入するだけでなく国産品も充実し、日本でも第一次レザークラフトブームとなった。その後、ごく一部の西部劇やウェスタン文化ファンの間で本来のアメリカンレザークラフト色を強く残したまま探求されていったが、日本全体としては革を装飾する手芸として女性を中心に普及した。結果、多くは本来のアメリカンなものからかけ離れた日本独自のものとなり、レザークラフト教室は多数存在したが現在のようなレザークラフト職人はほとんどいなかった。
90年代に入り、大塚をはじめとする数人の日本人が積極的にアメリカのレザークラフトイベントやトレードショウに足を運んでは情報を日本に紹介し、本来のアメリカンレザークラフト、レザーカービングの魅力が認知され注目を浴びた。しかしその盛り上がりに工具や資料の充実が追いついたのは2000年近くになってからであった。その頃から趣味の習い事としてでなく、製品を製作して売るという職人を目指すクラフターが誕生し始めた。
その後、さらなる情報や資料、工具の充実に加え、日本人ならではの繊細さと丁寧さ、職業として真剣に取り組むクラフターの増加により、日本のレザークラフトは目覚ましい進化を遂げ、現在に至っている。
大塚孝幸の経歴(年表)
米国滞在中、全米各地のレザークラフトセミナー、トレードショウに積極的に参加
テキサス州フォートワース「国際レザークラフト連盟コンテスト」にてマスターの部 バッグ部門優勝、ノート、アルバム部門3位。